無知の知

皆さん、こんにちは!

ものすごーく、お久しぶりです。

企業研修の実行やら

コーチングセッションやら

新年度の研修の打合せやら・・・

気持ちが落ち着かない日々を過ごしておりました。

どんな事態にも場面にも

自己コントロールにはある程度の自信を持っているつもりですが、

まだまだ、ですな自分。

 

春分の日の今日、朝からしとしと雨が降ってて寒いです。

明日からは、春到来♪の天気のようですが・・・。

桜の開花宣言から4日目、

電車の窓から外を見ると

空地とか家の庭とか、

限られた部分ではありますが、

見事に桜が花咲いています。

卒業式らしい若者も多く見受けられ、

春だなぁ・・・と、心弾ませています。

1年に4回ある季節の移ろいの中で、

僕は

冬から春に変わる今の時期が一番好きです。

皆さんはいかがでしょうか・・・

 

さて、

今日のテーマは「無知の知」。

自分への警鐘を鳴らすために

自分自身の今を検証するために

最近考えていることを書いてみたいと思います。

よろしければ、お付き合いくださいね。

 

フツーってなに?

自分の基準はすべてではない

「フツーなら、こう考えるでしょ」

「〇〇するのが常識」

 

私たちは

見えるもの聞こえるものなど

心に入ってくる物事に対して

常に「判断」をしています

 

良い、悪い

好き、嫌い

素晴らしい、別に大したことない・・・

無意識に「判断」していますよね

 

この判断の「基準」って

「今現在までの経験」であって

(「考え方を作る経験」とでも言いましょうか)

私たちの判断を左右しています。

 

ただ、

この判断は感覚的なものであって、

個々が自由にするものですから、

絶対でもないし

すべて、でもない。

 

ところが私たちは

この「感覚的な判断」を絶対的なものと思いこみ、

「すべてである」と錯覚してしまいがちです。

 

先日のコーチングセッションでクライアントさんが

「50歳過ぎた男なら、フツーは〇〇〇でしょ」

「リーダーだったら、〇〇〇であるのが常識でしょ」

と話すのを聴いていて、

「ん・・・?」

と、何か引っかかるものを感じました。

 

このクライアントさんが言うことを確認する意味で

「50過ぎた男なら、みんなフツーなのかなぁ?」

「リーダーだったら誰でも、それが常識なのかなぁ?」

と聞いてみました。

すると、

「もちろんです。誰だってそう考えてますよ!」

と自信を持って答えてくれました。

「本当に、誰だってそう考えているのかな?」

敢えて再び質問すると(僕自身の心に対しても)、

「ま、少なくとも自分はそう思っています」という。

 

そうなんですよね、

「少なくとも自分は」なんですよね。

 

他の人も同じように考えているだろうけど(たぶん)、

それはわからないこと。

自分の周りのすべての人に確認したわけじゃないから。

 

もしかすると、

自分が「フツー」で「常識」だと考えていることが、

他人にとっては「フツー」や「常識」ではないのかもしれない。

 

いや、もっと言えば、

自分の判断基準は自分のこれまでの経験で作られたものだから、

その経験なんて、

量的にも質的にも、実はたいしたことないのでは・・・

 

こう考えると、

自分の中のフツーや常識だけでは

物事を判断できないんじゃないか?

 

自分の知らない(意識できていない)フツーや常識が

もっと他にもあるんじゃないか。

 

これがソクラテス哲学の「無知の知」

自分の考えや感覚が「すべて」ではなく、

もっと別の考え方や感覚があると知っていること。

僕は、

「無知の知」を、そう認識しています。

 

 

気をつけたい

「無知の無知」

自分自身がこうあるべきは、まぁ良いとして、

他人に「こうあるべき」を求めるのはいかがなものでしょうか?

それも、

社会全体からみたらほんのちっぽけな経験で作られた判断基準で。

僕たちの経験してきたことなんて、

自分はどう思おうが、

すごく限定的なものなんだと思うんですよ。

まさに「自分限定の常識」だと。

 

ただ、

他人が嫌がることをしちゃいけない、とか

法を守る、とか

社会生活を営む上での最低限のルールやマナーは、

誰にとっても、

フツーなものとして常識的に誰でも守っていかなくちゃならない。

こういったルールまでもすべてじゃないというんじゃなくてね。

僕は反社会的思想を持ってるわけじゃないので(笑)

 

対人関係支援を仕事にしている僕としては、

特に「他人の見方、評価」の面で、

自分のフツーだけで相手を捉える危険性を感じているし、

自分自身にも、

そうならないように警鐘を鳴らしたいと思っているのです。

 

「あいつの考え方は〇〇だから(ダメ)」

「あいつはやる気がないから(ダメ)」

「あいつには常識が欠けているから(ダメ)」

 

会社で

ご近所のお付き合いで

子どもの親たちとの関係で

親戚付き合いで

ボランティアやサークル活動で

もしかしたら、親子関係で・・・

 

私たちの生活の中で

相手との接点は毎日山ほどあって、

そのたびに、

相手を見て評価(判断)しています。

 

仮に相手への見方が限定的であっても、

「あの人は素晴らしい人だ」

「あの人は一生懸命に生きてる」

と肯定的に評価するのは良いこと(無条件で)。

 

困っちゃうのは、

限定的な判断基準で相手を否定的評価すること。

 

相手のすべてがわかったうえでの否定的評価ならいいけど、

「すべてをわかる」

なぁんてこと、果たしてあるのかな?

 

そう、僕たちは相手の限定的な一部しか見ていない。

相手には、

僕たちが知らない経験があり、

感情があり、

判断基準がある。

 

自分の見た通りで、

それが「相手の評価すべて」という自信・・・

これが「無知の無知」。

自分に知らないことなんてない・・・という浅はかな考え方、ね。

 

 

無知の知を

育てるには

まずは

「人には多様な考え方がある」

ということを深く理解して

他人や物事の幅広い受け入れ方を練習する、日常で。

 

そして、

自分の判断基準を上げる(というよりも「広げる」)練習をする。

 

判断基準は

これまでの経験で作られるもの。

でも、

これまでの経験を変えることはできない

(経験してきたことの捉え方は変えられても)

 

とすると、

今自分のまわりにいる人たちとの「新たな関係づくり」が大切でしょう。

今までと違った見方(評価)をしてみるということです。

自分の見方は限定的なもので、今まで気づかなかった別の面を相手に見出す。

もちろん、肯定的にですよ。

 

こうやって練習していくと、

今まで相手に感じていたストレスがなくなっていきます。

そう、

幅広い見方をすることは、

自分のためになるってことですよね。

 

他人のことでストレスを感じがちな方、

それって自分にとってのマイナスですからね。

 

無知の知

あなたをストレスレスな幸せな毎日に変えてくれる第一歩です

 

また、お目にかかりましょう。

 

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